京都芸術センター diatxt.12号 より アート×場×コミュニケーション 矛盾と可能性
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藤浩志部分の抜粋
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diatxt.は京都芸術センターが発行しています。
詳しくは http://www.kac.or.jp/diatxt/ |
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藤浩志と申します。自分のこれまでの活動をこのあたりの切り口から一度整理してみるのもいいかと・・・。まず、ここでタイトルとなっているキーワードについての個人的な捉え方からはじめてよろしいですか? |
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■アート
僕はアートを「技術」として捉えています。もともと何の価値もない素材や意識、存在に力を与え新しい価値を立ち上げる技術であると捉えると理解しやすい。炭の粉や砂の粒子を重ねていって描く絵画も、石ころや木片を削って作る彫刻も基本的にはその意味でアート作品です。さらにアートを、価値を立ち上げるシステムとしても捉えています。
個人的にはアート以前の、つまり価値ある存在として立ちあがる以前の「個人的表現」を大切に思い、様々な表現を試みています。決してアート表現を目指して行っている活動ではなく、アートのイメージを追っかけている活動とも異なります。日常生活の中で様々な人々、組織、風景との出会いの中から生じる違和感がモチベーションになり、その関係を切り離すのではなく、なんらかの関係性を探ろうとする行動自体を表現活動に繋げています。 |
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■場
イメージを描く為にキャンバスや紙のような支持体が必要なように、八十年代後半より地域という場を表現の支持体として捉え活動を試みてきました。それがなかなか大変で面白い。
場には様々な属性があります。美術表現の中では空間という言葉がよく使われますが、空間というとホワイトキューブ的な純粋空間をイメージしがちで、その属性が見えにくい。場というと空間的な要素はその一部で、それが置かれている地理的な関係性、歴史性、その場にまつわる規則・法規、運営システム、行政的位置付け、社会的役割、組織・利用者・関係者との関係性など様々な属性があると捉えていています。そこが深くて面白い。
そして時代の変化とともに、多様で多層な様々な場が、都市施設、公共空間、自然空間、私的空間、ネット空間、映像空間等のあちこちに発生しつつあります。八十年当初、美術館やギャラリーを中心とするシンプルな美術システム内でのインスタレーション作家として扱われることに根拠のない反発とズレを感じていた僕としては、今のこの捉えがたい混沌たる状況はなんとも刺激的ですね。
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■コミュニケーション
八三年に最初に京都の街中を使って表現活動を試みたときにつけたタイトルが「Visual Communication」そのひとつの作品が「吾輩はコミュニケーションできない猫になってしまっていた」。ギャラリーでの最初の個展が「無口なカメよ」。随分前から家族や友人、先輩や周辺の人たちとうまくコミュニケーションできない自分について問題を抱えていました。実は現在でもそうです。というか、実は多くの人が大きなズレの中で生活しているように思っています。ちゃんと通じ合いながら会話をする術を知らないのではないかと。理解し合えているような錯覚の中で日常が営まれているような・・・、そんな感覚を持っています。他者と通じ合うことは僕にとって相当大変なことなんです。
僕自身は決してコミュニケーションをテーマにした表現を行っているという自覚はありませんが、自分とその周辺に見えてくるズレや溝、それを飛び越えるのか、橋をかけるのか、遠回りしてたどり着くのか、登るのか、埋めるのか、そこが表現を生み出すきっかけなのだと捉えています。
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ということで僕が関わってきた様々な場と表現を紹介しながら、今回のテーマに関連する僕なりの考え方をお話したいと思います。これからの話で注目していただきたいのは、表現されてしまったイメージがその周辺の人に対して新しいイメージや誤解を与え、予期せぬ事がはじまるという点です。それは決して僕自身が感じていた違和感を埋めることにはなりません。そういう意味では矛盾した活動なのかもしれませんが、そこからそれぞれの人、組織、空間などに芽生えた新しいイメージや意識、あるいは活動は、それぞれまた次の活動へと繋がる新しい可能性なのではないかと捉えています。 |
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| 1983年 |
「必死に川をのぼっているつもりの鯉たちなのだろうか」
三条大橋付近の鴨川の中に自作の一匹五mのこいのぼり十三点を設置した表現です。そこは人通りも多く京都の要でもあるし、歌舞伎の発祥地という歴史的な重要な場です。個人的には大学一年の時にいつも通っていた珈琲店から眺めていた思い出の場でもあります。そこに深く関わりたかった。大きな社会の流れの中で「必死に泳いでいるように見える姿が実は繋がれていて流されているだけなのではないか」という自分自身の将来の姿を晒してみたかった。これを実現する為に稚拙な企画書なるものを書いてみたものの、どこに持って行けばよいのやら知らない。警察、市役所といろいろと飛び込み話をしようと試みましたが、結局だれにも相手にされずに無許可で設置してしまったんです。それが面白い予期せぬ出来事を生み出した。僕の知らないところで夕方には京都府土木局によって河川管理法上の障害物として撤去され、そのことが「真夏のミステリー」として新聞やテレビで話題にされ、大学では京都府土木局が美術作品を作家に無断で撤去したことについて臨時の教授会が開かれ(僕は直接知らないんですが)、京都市が京都府に対して抗議の文書を出したとか。この体験がなかったら今僕はこんなところにいないんでしょうね(笑)。 |
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「吾輩はコミュニケーションできない猫になってしまっていた」1983年
これは河原町商店街のお店の前に招き猫の看板を一店舗一体ずつ設置してもらおうと企画書を書き飛び込みでお店の人に交渉して回った表現です。あちこちに不思議な招き猫がいて手招きしているという河原町の風景を作ってみたかった。単純に街に作品があふれるイメージが作りたかったのだと思います。その招き猫が実は表面的には笑顔で接しながら本当の会話ができない悲しみを秘めているというネガティブなコンセプトが悪かったんでしょうね。結局、数十軒の店を回りましたがことごとく断られてしまいました。当時はちゃんとした話し方も知らなかったし、設置する側の都合や気持ちなんか充分考えていなかった。もちろんそれなりに精一杯考えていたつもりだったんだけどね。結局数軒の新しいアートに関心の有る商業ビルだけが置いてくれて厳しい現実を思い知らされました。しかし、その後、京都の地下鉄開業時に出来た情報センターのオープンニングディスプレイや、パチンコ屋の新装開店の看板としてその招き猫達が働くことになったりしました。友人からの情報ではその数年後、京都河原町商店街のキャンペーンセールに派手な招き猫がキャラクターとして使われていたとかで、河原町通りの旗がすべて招き猫だったとか。それが僕の招き猫のイメージだったとか。未確認情報ですけど。 |
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「軽茶倶楽部(カルチャクラブ)」1984〜85年
これは軽い気持ちで茶会をしながら茶道について考えるという表現です。学生時代の後半に借りていた一軒家に床の間のある部屋があり、そこの畳を勝手に切って炉をつくり茶室とみたて、そこで二週間に一度茶会をひらいていました。床の間インスタレーションとか坪庭インスタレーションとか、遊び感覚で季節の空間をつくったりしながら。たまたま同級生に茶道と華道の家元を引き継ぐという友人がいて、もっと気軽に自分たちの世界に近い感覚でお茶を楽しむことはできないかとうところから始めた活動です。茶道というものが社会的階級を超えた様々なコミュニケーションを生み出す場としてつくられたということに共感し、特に屋外で行う「茶箱」というツールに興味を持って屋外での不思議な茶会などを開いたりしていました。当時の後輩や友人達がいろいろ参加してくれて、いろいろな種をまいたのではないかと感じています。 |
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「ナマズの群像建設未定地」1984年
これは東京の郊外、千葉県我孫子市にある手賀沼湖畔の閑静な住宅地の空き地に「ナマズの群像建設未定地」という看板を立てて、数週間、完成しない何かを作り続けた表現です。近くのギャラリーが主催する展覧会の出品作品として行っていたのですが、通りかかる人にたずねられても、決してそれが「展覧会の出品作品であると言わない!」と決めていました。真っ黒なナマズの人形のようなものを数十体制作して敷地のあちこちに配置し、切り株やテレビモニターを十台ぐらい埋めこみ、すべてに電源を繋いでそれぞれが雑音のような音と光を放っていて、夕暮れになると雑音をチューニングしながら心地よい空間を作ろうとしていました。周辺の住人にとってみるとそれが何なのか理解しがたい。そのうち、いつも散歩している人たちが話しかけてくるわけです。しかしその頃は本当に会話が下手で、やっていることも自分自身よくわかっていませんから説明のしようがない。「ナマズの群像をつくるふりしています」と一生懸命説明しても当然理解してもらえない。本当は隠れてしまいたい気持ちでいっぱいだったんですけど、「美術は必要なのか!」という疑念に対する答えを必死で求めていたんだと思います。美術作品であるという冠がない状態で何が成立するのかを探っていたのかな?散歩する人が見に来て、「兄ちゃん何やってるんだ?」みたいなことを聞かれ、毎日のように説明するうちに「まだ若いんだから、こんなことやらずにちゃんと働け」と説教してもらったりして。「これだけエネルギーがあるんだったら、いろんな仕事もできるから」と励まされたり(笑)。それに対して僕はひたすら「すみません。すみません。」と謝っていました(笑)。この現場も僕にとってとても大切な体験でしたね。
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「ゴジラの散歩」1984〜85年
昔の映画の怪獣、ゴジラの着ぐるみを制作してそれで街のいろいろなところを散歩するという表現・・・かな? そもそも友人と立体の彫刻作品を作ってみようかという話になり、街に設置するのはいろいろ許可が大変、でも身につけている服の延長なら大丈夫だろうと。僕としては社会的な肩書きを身につけるということについて「はだかの王様」の話を引用しつつ、社会的な地位や権威の価値?力?意味?などとぐだぐだ悩んでいた時期で、一般的に知られている怪獣のキャラクターを身にまとって散歩するという行為は当時の美術作品のイメージからは程遠いところにあって心地よかったのを覚えています。これがきっかけでいろいろな場と関わり、様々な人と出会い、話をすることになりました。関西の繁華街や商業施設、東京芸大、赤坂のファーストフード店を散歩したり、演劇にも特別出演したり、ライブハウスで有名ミュージシャンのバックパフォーマンスもやったりしました。ゴジラかぶってですよ! 基礎体力をつける訓練のような活動でしたね。 |
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「六年間の結婚生活にも関わらず 決してあたたかな家庭を築くことはできませんでした」1985年
これは大学院の卒業制作ですが、大学という場そのものについての批判めいたことを「ゴジラとハニワの結婚離婚問題」という切り口で大まじめにやっていました。ここでゴジラはエネルギーを持った存在の象徴(何をやっていいのか分からないけどエネルギーだけはある奴)、ハニワは権威の象徴です(ここでは美術とか工芸とかの権威)。中身は空っぽというところがポイントなんですが(笑)。大学院の修了審査会を公開パフォーマンスにしてしまって、当時の担当教授たちを来賓として、後輩達を観客として招待して「ゴジラとハニワの結婚披露宴」というのを実施して教授達を怒らせてしまったり、卒業式の日にラブソングを歌いながらハニワを池に沈めていくという儀式を行ったり、「ハニワ伝説」という漫画を作ってそれを配り、美術のハニワに注意を促すような広報を行ったり。京都芸大の池には、いまだにハニワがいると思いますけれど、ソレです。このペースでお話して行くと終わりませんね。もったいないけど省略して話します。 |
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大学を出てからは、商業施設でのディスプレイやパフォーマンスの仕事をもらいながら、紙芝居小屋をつくってみたり、長さ三十mの老松のヌイグルミをつくったり、道路にアリの行列を描いていったり、漫画の冊子をつくったり、自宅で研究の為の展覧会というのをやり、見せたい人を個別に招待してとことん話す企画をしたり、警察官の人形に話しかける映像をとってみたり、当時京都を中心としていろんな場と見境なく関わってみましたが実はとても辛かった。もっと違う場が欲しかったんだと思います。結局美術というシステムからはそう遠くない商業施設や公共空間、あるいは一般的に開放されている場に一時的で表面的な関係を作り出しているような感覚でしょうか。もっと深く現実の社会の現場に関わりたかった。当時はその手法が分らなくてただ同じレイヤー(階層)をうろうろしているだけだったんですね。レイヤーを変えるとまったく別の場に行けることを知らなかったんです。 |
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青年海外協力隊という場・パプアニューギニアでの表現(1986〜88年)
ほとんど弾みと偶然でしたが、個人的には国際協力という場や開発途上国という場に足を踏み入れたことでまったく違うレイヤーに飛ぶ術を知ってしまいました。決して楽な現場ではなかったのですが、ここでは多くの特別な体験をし、大切な意識と出会うことができました。日本の状況や現代という時間を外からの視点で客観視しながら、時間軸を飛び越え原初的な生活様式で暮らす場や、何代も前の先祖の霊と会話する儀式の場、文化人類学者のリサーチの場、商社や企業が開発を行う場、宣教師達が教育に関わる場、犯罪や暴力の場、革命や暴動の場、僕自身もマラリアや事故で生死をさまよう場を体験したりしました。そんな過酷な場の中で表現として立ち上げ、自分自身のイメージに刻もうとしたモチーフが「ヤセ犬」と「ゲコ(南方系のやもり)」です。
ヤセ犬は「ある価値のない状態から予想もつかない素晴らしい状態へと変化する姿」の象徴であり、僕にとっての「美しさ」の象徴として意識の中に刻まれています。またゲコは、周辺の環境によって自分自身の色(表現の手法)をなじませつつ全体が俯瞰できる隅っこにじっと潜みながら、ここぞというとき相手を撹乱させるほどの鳴き声(表現の強度)を発するという素晴らしい生き方を教えてくれた象徴です。これについて話すと長くなるので、詳しくはウェブサイト※を参考にしてください。 |
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都市計画事務所という場でサラリーマンとして働くという表現(1988〜92年)
パプアニューギニアから帰国する直前、都市や地域の様々な現場にもっと深くかかわった所で表現できないかと考えていました。そんな時、日本の週刊誌の巻頭グラビアに紹介されていた東京の都市再開発業者(地上げ屋)のとある社長に興味を持ち、そこに就職するという活動を思いつきました。それがちょうどバブル経済が崩壊する直前の東京でなんとも刺激的でしたね。入社半年でその会社が崩壊したり、その後新しい都市計画事務所を立ち上げるメンバーになったり、紆余曲折ありながらも、実際の地域計画や建築企画、都市計画、商店街活性化事業、企業の商品開発等、コンサルタント所員としてアートの世界とは全く別のレイヤーで様々な場に関わり、実際の都市や地域が作られるシステムを大きな不満とストレスを抱きながら勉強させていただきました。製図、キャド、3Dグラフィック、パース絵等の建築企画上必要な技術や、建築基準法、都市計画法、民法等の宅地建物取引主任の資格に伴う知識、それに行政や企業に対する企画書の作り方や話し方、プレゼンテーションの手法など、芸術大学で勉強する以上に役に立つ技術を習得させてもらったと思っています。 |
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「犬のおしっこ、お米の砂漠」1989〜91年
その当時は、取り壊されて行く木造家屋に住みこみその柱からヤセ犬を制作したり、一ヶ月分の給料を使ってお米を買い、それを敷き詰めお米の砂漠をつくるなどの表現を不良債権になったビルの一室を使って行ったり、会社に対する不平不満を表現したりしていました。ギャラリーで鍵と地図と空間の使用書というのを貸しだし、二四時間いつでもどれだけでも使えるプライベートアート空間というもの試みたのもこの時です。 |
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「Media Garden Eスペイス」1989〜96年
鹿児島の実家を改装して空間としての作品をつくり、カフェとして運営をはじめたのもこの頃です。一番理解し合うことのない両親、兄弟と協同で様々なコミュニケーションや関係が発生する場を作りだし、そこを運営するという表現も試みました。ここは八年間にわたり運営され、実際にそこから様々な活動が生まれました。
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「2025カエルの池シンポジウム」1992年
一ヶ月の給料すべてを使って買ったお米でカエルの形のおにぎりを制作し、三十三年後の都市環境がどのように変わるかについて様々なジャンルの専門家にインタビューを行い、二〇二五年について考える場をつくるという表現を行ったりもしました。
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藤浩志企画制作室勤務という表現(1993年〜)
その後、藤浩志企画制作室というものを立ち上げ日本の隅っこ鹿児島に移動しました。ゲコの生き方の実践ですね。この事務所は相手によって業務内容が変化します。そもそも、藤浩志そのものを企画し、制作する場として立ち上げたものです。そこでは、鹿児島県全体を場として九十七市町村の一〇一ヶ所に文化館をつくる構想「一〇一の犬小屋計画」。そのリサーチの為に入った地元の合唱団での活動(これはかなりはまりましたね。二年間で全国トップクラスの合唱団になってイタリア遠征までしてしまった!)。鹿児島水害後の河川改修事業に伴う石橋撤去論争の場での活動(これは屈辱的な敗北だった!)。石橋問題を扱った絵本「たけのはし」の出版。取り壊された家の柱で一〇一匹のヤセ犬を制作し、学校、廃校、商店街、ダム湖、国際展示場等、全国各地の様々なアートプロジェクトの現場を回る「ヤセ犬の散歩」。三十年後にアートセンターとなるプログラムを持つビルの建築企画「e-terrace」。福岡に拠点を移してからは、養鶏場の跡を制作スタジオとする「Studio
Farm Lab.」。皆で企画を持ち寄ってたたきあうミーティングの場をつくる「PLANT」。地域の祭りの場を利用して数千もの紙袋の灯明を並べて地上絵を描くデモンストレーション「公庭は素晴らしい」(これはその後すごい祭りに成長しつつあります)。妻や子ども達との家族のプロジェクトとして行った「家庭内ゴミゼロエミッション」「Vinyl
Plastics Collection」等様々です。こうやって列記しただけではやっぱり何もわかりませんね。ごめんなさい。そうやって様々な表現を行ってきてたどり着いた興味がOS的表現でした。 |
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「Vinyl Plastics Connection」1999〜03年
この活動、表面的には単純で、「アートの世界は分らん!」という人にとっては分りやすい表情をしています。しかし、アート作品として見てゆこうとすると主催者や参加者に応じたレイヤーが何層にも設定されているので分かりにくい。表現としてはインスタレーション性やパフォーマンス性を兼ねた「デモンストレーション」という手法を持ち込んでいます。それぞれの場は、ワークショップ参加者がワークショップを行いさらにその参加者が主体的な活動を行うという「ワークショップの多層性」によって作られ、参加者による表情しか見えない構成になっているあたりもややこしい。さらに藤浩志作品「OS的表現のサンプル」として説明されてみてもその概念があいまいで、表現そのものが場によって変化し未完成で捉えどころがなかったりします。おそらくこの活動を立ち上げた一九九九年以降、興味を持って関わってきた人は数万人いると思いますが、僕個人の表現の部分を理解しようとしている人は片手で数えられるぐらいかな。まあ、そんなもんだと思います。 |
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この表現は「地域活動は地域の人が主体的に行わなければ意味がない!」との思いから、様々な主体的な活動が起動する基本システムのサンプルを作ろうとしたものです。システムそのものは見えない性格のものなので、デモンストレーションという見える形にして説明します。そして興味を持った人が主体となってこのシステムを利用し、様々なアプリケーションプログラムがつくられてゆくというイメージです。そのツールとして家庭から排出される様々な素材を利用しています。表情として見えるものがそのような素材なので「リサイクルアート」だとか「環境アート」だとかの多くの誤解を与えています。しかしこの誤解もまた大切で、深い会話へ繋がるきっかけとなっています。またこのシステムを主体的に利用した人がそれぞれのモチベーションで勝手に動き出すことをむしろ待ち望み、興味を持ってサポートしています。
これまでに立ちあがったプログラムとしては、ペットボトルを使ってカヌーやオブジェや照明や家具を作る活動。ポリ袋を使った織物でバッグ等の日用品を作る「ポリクラフト」。それらを使ってファッションショーを行う「ビニプラショー」。ハッポウトレイやポリ袋を使って作った紙芝居を公演する小学生チーム「ポリトレ紙芝居」。商品イメージだけを販売して物をうらない「ビニプラコンセプトショップ」。いらないおもちゃを持ちよって子どもの遊び場をつくる「かえっこ」。ヌイグルミで埋まった街角の子どもの為のシアター「ヌイグルミシアター」。素材を自由に使えていろいろな作品を制作する超再生産工房「ポリプラック」等いろいろあります。それを韓国、台湾を含む百ヶ所に近い地域のそれぞれの場―商店街、公園、大型商業施設、科学館、公民館、学校、保育所、美術館、空店舗、ギャラリー、リサイクルプラザ、河川敷、空き地、駐車場、個人住宅等で、環境団体、教育委員会、学校、アート系NPO、リサイクル系NPO、子どもの問題系NPO、行政、企業、町内会、広告代理店、個人等、様々な組織や個人が主体となり実施され、現在でも独自に展開しつつあります。それぞれの活動は現場ごとに意味、形態、規模など様々です。そこが僕としては一番興味深くて面白い。そして経済的利益や既存の価値観に捉われることなく新しい活動を求める魅力的な人たちと出会えた事が何よりも素晴らしい。それぞれの活動について紹介したいのですが、さらに一冊の本という場が必要になりますからまたの機会にということで、とりあえずのイメージ程度ならウェブサイト(※)でご覧ください。
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個人的にはコンピューターを起動させているOSというあり方に興味を持ったところから始まっています。現在の社会状況の様々な側面に違和感と不満をもちつつ活動しながら、そのOSというあり方がなぜ現在の政治システムや経済システムに引用されていないのかという疑問を持つようになりました。行政はOS化しなければならないと考えていますし、企業もOS的発想をもつべきです。身近なところでOS的な表現のサンプルを作りながら実はそんな妄想を膨らませています。その個人的な意識については活動に関わるそれぞれの場の人たちにはややこしい話で、どうでもよい話なのでしょうが、機会があるたびにいろいろな人にぶつけています。たまにそれぞれの捉え方で共感してくれる人もいて、わくわくしています。予感としては、OS的システム整備は今後様々な現場で確実に進行し、新しいネットワーク型の社会システムができてゆくと考えています。
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現在接しているあらゆる風景、システム、組織、すべてのコトは、それぞれの時代の価値観が反映され、つくられてきました。そのすべてのコトそれぞれが「場」であると捉えることができます。そのそれぞれの価値観が立ちあがる初めのポイントに、周辺の価値観に違和感を持ちながら強い意思を持ってそのイメージをたちあげた人がいたはずだと。そこに個人の表現は関わり、そこに共感や違和感を持った人がいて様々な活動がはじまり流通してきたのではないかと。そこに新しい価値観を立ち上げる技としてのアートは大きく関与し、様々な質のコミュニケーションをつくりだしてきたのではないかと考えています。・・・っということで話し足りないのですがこのへんで。
※ http://www.geco.jp |
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『diatxt.』フォーラム#4
2003年11月29日
dt.:本日は、「アート×場×コミュニケーション」というタイトルで開催いたします。このようなタイトルを設けましたのは、二〇〇三年一〇月四日から一一月三日までここ京都芸術センターを中心会場にして開催されました「京都ビエンナーレ2003」、吉岡洋さんが総合ディレクターを務められて、「スローネス」をテーマに展開されましたが、このビエンナーレが私たち『diatxt.』編集部のヒントになりました。それはどういうことかといいますと、このビエンナーレは京都芸術センターを中心にして、いろいろな場所で、伝統芸能を含めて、一ヶ月にわたって開催された芸術祭典だったのですが、そもそもこの京都芸術センターというところは、美術館やあるいは劇場やコンサートホールというところとは違って、いろんな表現活動が、いろんな場所で交叉し合うような、そういう交叉する場としてのセンターということを大変大切に考えています。「京都ビエンナーレ」もその中にこのような考え方が反映されておりまして、ご覧になられた方も多くおられると思いますが、ここでアート展が、いわゆる純粋美術展が開催されたのではなくて、いろいろな場所で伝統芸能にも前衛芸術がリンクしあってつくられたり、あるいは遠く離れた京北町にある「マンガン美術館」というところの洞窟で、高嶺さんというアーティストが発表したり、というようにいろんな表現形式全体でビエンナーレというふうに呼んで開催したわけです。
そのビエンナーレとここ芸術センターということを考えますと、アートが生まれでる場というものが非常に大事なのではないかと考えまして、それで「アート×場×コミュニケーション」、そしてそこに生まれている新しい可能性とともに、現場で実践的に発表するアーティスト、それからそれをつくりあげ統合するキュレーターのような立場の人間、そしてそこに鑑賞に訪れるいろんな人との間で交わされるいろいろな言葉や、あるいはそこでの問題などが、今日話し合われればよいと考えて、今度の『diatxt.』フォーラム#4を開催することにしました。
順にパネリストの方々をご紹介させていただきます。まず、野村誠さん。作曲家で、たくさんの方がおなじみかと思いますが、来年は山口情報芸術センターで「しょうぎ交響曲の誕生」というイベントをなさるご予定がおありになりまして、野村さんはいろいろな老人ホームですとか小学校などで、必ず他者との関わりを持ちながらその場でいろんな音、音楽を作っていかれるという作曲家としては大変に新しい形の音楽を作られる作曲家です。
藤浩志さんは、世界中を飛び回っておられますが、最近では大阪でひとつワークショップ的なものをなさったのですが、ご自分の家庭で使われたビニールやプラスチック素材を絶対に捨てないで、それをなんらかのモノにかえたり、販売をなさったり、販売はなさっていないですか(笑)、交換をなさったりするプロジェクト「家庭内ごみゼロエミッション」を展開なさったり、その他にいろんなところに神出鬼没に、それこそ場を非常にすばやく即興的に藤流に感知して藤流に作り変えてしまうような美術家といいますか、アーティストです。とても楽しい方です。
そして最後になりましたが、吉岡洋さんは、「京都ビエンナーレ2003」の総合ディレクターを務められて、それ以前には京都芸術センター発行の芸術批評誌『Diatxt.(ダイアテキスト)』の創刊から第8号までの編集長を務められて、特に8号では「京都ビエンナーレ」のテーマとなりました「スローネス」を、まず先行する形で思想的に提示されて、そして展覧会という形で目に見えるように出してくださったということになります。
まずはパネリストの方お一人ずつに、これまでの活動、特に近年のお話が多くなると思いますが、それらを踏まえながら、このテーマについて思われることについてお話いただきたいと思います。前置きが長くなりましたが、まずは野村さんからお話を伺いたいと思います。
野村:今日は何を話そうか何となく考えてきたんですよ。一応、話そうと思っていることを先に言っちゃうと、まず山口情報芸術センターの「しょうぎ交響曲」というプロジェクトが結構楽しみだな、という話をしたいなあと思います。それから「しょうぎ作曲」というものをしているんですが、それの話をしないと「しょうぎ交響曲」どころの話じゃないなということで、まあ真面目に話してみようかなと思ってきました。
作曲ということをずっとやっているんですが、美術とかダンスとかいろいろあると思うんですが、作曲というのは相当個人作業なんですよね。コラボレーションが相当難しいというか、あまりやらないんですよ、みんな。ベートーベンとモーツアルトによる共同シンフォニーとか、あったら聞いてみたいんですけど、やろうと思ったふしがなくて、バンドの仲間で二人で連名でとかはあるんですけども、あっても二人とかっていう感じで、ないんですよね。何でそれをしたいと思ったのか、なんでかよくわからないんですが、まあ作曲もひとりでもやるんですけど、ひとりだけでやってたら寂しいので、二人とか三人とか五人とか一〇人とかでも作曲がしたい、と普通思いますよね。でも作曲というのは難しいので、その一方で即興演奏のセッションみたいのだと、二・三人とか五人とか数人で違った人が集まってコラボレーションするぜみたいな感じでセッションはするんですけども、それって、こういうディスカッションとかでも同じだと思うんですけど、だいたい声が大きくて、反応がはやい人に持ってかれちゃうんですよね。だから、演奏するんだったら一番大きな音でダーンと鳴らして、ある程度出てきた音に瞬間的に反応してバーンとかやる人が、常に主導権を握って、音が小さくて反応が鈍い人というのは、必ず主導権が握れないんですね。ディスカッションとかでもそうだと思うんですよ。声が大きくて、反応が早い人、「ああ、それはね・・・」とか言っている人が強くって、「う〜ん」とか五分ぐらい考えて「それは・・・」と言う人は、たとえその人の言うことが同じがそれ以上に面白くても、声が大きくて反応がはやい人に持ってかれるんですね。僕はどっちかというと、自分では声が大きくて反応のはやい方なんですけども、なんていうか、結局それを突き詰めていくと、声が大きくて反応がはやいことを競い合う、みたいな感じになっていて、何をやってるのかわかんなくなるんですよ。コラボレーションしてるとかいっても。声が小さくて反応が遅い人に、ちゃんと負けられるような音楽を作りたいなと思って、それでそういうことができるようにと思ったときに出てきたものが「しょうぎ作曲」という方法だったんです。ルールは非常に単純で、順番を設定して、自分の順番になったらその場面にどういう自分のパートを作るかというのを決めるので、反応が遅くてもいいんですね。五分ぐらいじっくり考えてその場面のパートを作ってもいいわけです。あと、五分ぐらいじっくり考えたりするんで、声の大きい人も自然に疲れていったりして、だんだん声の大きいのが嫌だみたいになってきて、まあいままでやってきた中では、結構声が小さくて反応が遅い人にも負けられるシステムができたなと思ったんですね、とりあえず。負けるというか、「やられた!」と。その瞬間を体験できるのが面白かったんです。そういうことで、「しょうぎ作曲」というものを、いろんなところでいろんな人とやったりして。
自分の中では、それは民主的といえるのかどうかわかんないんですけど、結構、強力なリーダーが存在して引っ張っていったり支配されるというような形ではないつくり方みたいなもので、まあその仕組み自体は僕が考えたものなんですが、いろんなものがつくれるという体験の中でいろいろ面白いことがあって、それがああ、面白いな、体験したことのない音楽だな、と思って結構楽しかったんです。
でまあ、それはそれで、数人のコミュニティーとか、五人とか一〇人とかで作ったりしてというようなことがあるんですね。なにか人がたくさんいるという状況があるんですよ。学校の全校集会であるとか、オーケストラ団員一〇〇人とか。およそ民主的ではないんですけど、しかし一〇〇人いるから面白いみたいなこともあって、まあまあそういうことと自分なりにどうやって折り合いをつけてやっていこうかなと、考えるというか、悩むというか。考えるんですが、一〇〇人いるときは一〇〇人で面白いんですね。
奈良の大和高田市のさざんかホールというところで、鍵盤ハーモニカの僕のグループの「」のコンサートをするときに、なんでかわかんないんですけど、ホールの人が、近くの小学校に行って何かやってくれとしきりに言うんです。何がしたいかよくわからないんですけども小学校に行ってほしいという話があったので、よくわからないけど小学校に行くことになったんです。せっかく行くので何か作品を作りたいなと思うんですけども、小学校二年生全員一〇四人とかがいて、一緒に会える時間が四五分なんですね。四五分で何かやるのは本当に難しいから、演奏を聴いてもらおうと思って、三〇分ぐらい演奏を聴いてもらったんですけど、何かちょっともったいないので何か一曲は録音しようと思って、そのときは、小学生を楽器として使うというか、非人道的なんですけど、だいたい全員が鍵盤ハーモニカを持ってきてくれたので、一〇四台あるんですよ。一〇四台の鍵盤ハーモニカをいっぺんに鳴らすチャンスというのはあんまりないから、僕はそのときはちょっとある意味特権的な立場だったんですけど、たまにはみんな指揮してやれという気持ちでやって。鍵盤をピとならすと、真似してくれるというルールをつくって、かなりそれが特殊なシンセサイザーみたいな感じで、僕が高いラとかを押すと、全員僕が押してから少し時間をおいてズレながら「ラー」と出るんですけど、ラじゃない音とかその辺の高い音とかもばーっとズレて出る。低い音とかを出すと、その音がまたばーっと出て、特殊なシンセサイザーみたいで面白いなと思って。とりあえず僕の真似をしてもらいながら、それに合わせて鍵盤ハーモニカのバンドのメンバーに即興で演奏してもらったんですけど。ちょっと聴いてもらいましょう。
(音楽)
こんな感じだったんですけど、これはこれで、まあ一〇分ぐらいしか時間がない間でやらしてもらってたんですけど、面白かったんですよね。これはこれでかなり非民主的というか、マスに対して「真似してよ」と言って真似してもらうんですけど、面白かったし、結構できたものもよかったなあと思っているので、これはこれでありかなということを思って。別に民主的でなくてもいいんじゃないかというような微妙なんですけど、なんか人をマスに扱うというとなんですけど、でもそういうこともあるけど、なんというか「ファシズム万歳!」と言ってるわけではないですけど、これはこれでありだから、なんかこれで面白いものができるということについては考えた方がいいということは思ってて。それでたまたま山口の情報芸術センターというところで面白い企画というか「しょうぎ交響曲の誕生 しょうぎ作曲の現在とオーケストラの新潮流」というタイトルがついているコンサートをやることになったんですけど、いまから二年前ぐらいから僕はこのセンターと関わっていて、藤さんも関わっていたんですけど、最初はセンターのプレイベントとして「山口アートマネージメント隊を募集します」とかいうことを始めて、それで市民の人で企画するチームを作ってアーティストと組んで企画を立てるというようなそういうプレイベントがあったんです。それで藤さんと僕と小山田さんと木村敏朗じんじんの四人のアーティストが突然山口に連れて行かれて、市民の前で話をしてみたいなことで説明をして、それでこの人と一緒に企画考えたい人は手を上げて、みたいなことで決まった人と企画を考えるということをやってたんです。それで結局二年間ぐらいちんたらちんたら企画を考えていたら「しょうぎ作曲をオーケストラでしよう」みたいな話になって、それで今度はオーケストラでするにはどうしたらいいかと、地元のオーケストラを探したりなんだかんだしたんですけど、結局、オーケストラのメンバーも公募で集めることになって、そもそも企画を考えている人たちも公募で集まってきた人なんですが、いつのまにかその人たちがオーケストラのメンバーを公募で集めることになって、それでオーケストラのメンバーの人たちは最初はやっぱり楽譜のある曲じゃないとできないというようなことをいう人も多かったので、それでまた「しょうぎ作曲」をする人をまた公募で集めることになったんです。それで先週山口に行って、九歳から四〇何歳の人までの二〇人の人で「しょうぎ作曲」で曲を作ったんです。その曲をオーケストラ用の楽譜に編曲して、それが「しょうぎ交響曲第二番 どこ行くの?」という曲になるんですけど。第三番はオーケストラの人たちと「しょうぎ作曲」をしてみようということになって、「しょうぎ交響曲第一番 ちんどん人生」というのはもうすでに僕と何人かで作曲した「しょうぎ作曲」の曲で比較的オーケストラ用に編曲しやすそうだという曲を、それもオーケストラ用に五線譜に直してやるというもので、いったい何がしたいのかという感じなんですけど。でも一応、「しょうぎ作曲」とオーケストラというものについていろいろと考えている企画なんです。
「しょうぎ交響曲第二番」がすごく楽しみなのは、いろいろ一般公募で集まって来たんですけど、つくる人たちが僕が思っていた以上に、こだわりがあるのかもしれないけど、かなりこだわりなくすぐ決める人たちだったんです。「う〜ん」と考えることが全然なくって、「じゃあ、あなたの番ね」とか言ったら、「はい、ばーん、ばーん、、はい決まったこれ」とかいう感じで、なんかこうひねりにひねるんではなくて、すごくひねりがない感じの曲になって、こんなにひねらないのもありなんだというぐらい僕は結構驚いたんですよ。で、できてみて思ったんですが、あれだけひねりのない音楽がオーケストラで演奏されたことってたぶんいままでないんですよ。もうちょっとこう情感を込めたりとか、ちょっと工夫してあったりとか、例えば最初に、カーンカーンカーンという与作みたいなビブラスラットというのがあるんですが、それを例えば何でやるのかわかんないんですけど、トランペットにミュートを付けて「パラララ・パラララ・パラララ」と始まるようなそういう曲に編曲していこうと思っているわけなんですけど。メロディー楽器もたくさん置いていたんですけど、ほとんどの人が打楽器を選んでコンコンとたたいて、はいこれって。ほんとに、このオーケストラ曲を作ろうっていって、あえてみんなメロディー楽器を避けていくところとかもすごく面白くって。予想もしなかったんですね、僕は。もうちょっといろんな人が集まって、「私は音楽にはちょっとこだわりがあるんです」みたいな人が入ったりするかなと思ったりしたんですが、たまたま集まった人がそういうノリで、バイオリンとかソとラしか使わないみたいな(笑)。トロンボーンは一音だけとか。最初に「しょうぎ作曲」をしないでオーケストラ曲をつくったら、よっぽどのことがあっても書けないようなオーケストラ曲ができそうなんです。それですごく楽しみにしているんです。一応、僕の話は、すごく楽しみなんです、ということです。
dt.:ありがとうございました。他の芸術センターの宣伝をするようですけど、皆さんも是非どうぞお出かけください。次は藤さん、お願いします。
藤:弱ったなあ(笑)。話しにくいなあ。困ったなあ。おもしろそうですね、
(野村:ええ、楽しみなんですよ)。
そうか、オレ自分のこと話さないといけないんだよね(笑)。ちょっと展開が……頭切り替えられないんだけどさ。……なんか遅いんですよ、ほんとに。よくこう話をしてて、なんかこういう場では思いつかず、友だちと話ししててもそうなんですけど、三日後ぐらいになんか、「あっ、このときこういえば良かったんだ」というのが分かるタイプで、けっこうそういうのがずっと続いて、とくに昔はというか、学生時代のときとかほんとに話ができなくて、ミーティングとかでも、思ってることがなかなか言えないってのがよくありました(笑)。
まあいいや。僕は自分の話をしなくちゃいけないんですけど、ええと、「場」ということがテーマになってると。「アート×場×コミュニケーション」か。で、まあとらえかたというか切り口がいろいろあるので、じつはけっこう話しづらいんですよ。とらえかたというか、場をどうふうに見るか、どこでとらえるかということで、内容がぜんぜん変わってくるなと思ってるんですけど、えといちおうまあ、せっかくここの京都芸術センターのこの部屋に来たのが九五年の何月かなんですが、たしか小学校が廃校になった次の年だったと思うんですけど、で、そこのときに、そこの場を使わせていただいて、ここの跡地利用の話も出ていて、「これからどうしよう」とミーティングしたりしてたんですが、まあサンプルとしてはここの入り口のとことか、今暗幕がかかってますけど、そこにさらにさかのぼること一〇年前の、自分自身の作品を展示したんですよ。で、ここの入ってきたところにも昔のそのビデオとかを展示したりして、まあちょっと懐かしいなあと、ここの空間を見て、ほんとにこの学校が廃校になったんだ、と思って、これが今から壊れるのかな、どうするのかな、ほんとにこのまま残ればいいなと思っていて、それがみなさんの思いでというか、いろんな活動された方のあれで、まこういうかたちとしてみなさんに使ってもらってる、建物としてはほんとに喜んでるだろうなと思ってるんですけれども、そのときに展示した、そのへんの昔ネタをちょっと……。じつは、紹介されているところでは、最近ネタのビニールプラスティックコレクションをという話でもあったんですけど、ちらっとだけ、その、僕が場というかですね、僕としては「現場」という言い方をするかな、その現場に関わるようになったきっかけ、のころの、どんなことをやってたかというのをちらっと紹介しようかなと思います。
これはネタとして、さかのぼること二〇年前になりましたけど、一九八三年当時ですね、京都で学生をやってまして。僕は京都市立芸大に入ったんですけれども、そのころ大学は東山七条にあったんですね。で、三条の河原町の、鴨川の横のところに、「からふね屋」という喫茶店ができて、そこ24時間オープンで、一日三回必ず、それぞれ三時間以上いるっていう生活をなぜかしていて、そこで暮らしていたみたいな。で、劇団のミーティングもそこでやったり、クラブの練習が終わった後もそこでコーヒー飲んでたりとか、とにかく呑んだ後もそこに帰ってという。電話がそこにかかってきましたから、「藤さんいますか」みたいな(笑)。で、そこから見える風景っていうのが、すごく僕は気にしてて、要するに鴨川の流れが見えるんですよね。で、そこで何かを、自分は表現を始め、何かを作るようになって、最初に意図的にやろうと思ったのが、三条の河原、鴨川に何か作品を、自分の作ったものを置きたいなと。ていうか、それはつまり、置きたいというよりも、その「場」ですけれども、「場」と関わりたいなって思ってたんですよね。たぶん。何か関係を持ちたいなと。そういうことだったと思うんですよね。関係性を作るというか、関係を持つ、関わる、というか、そういうことをやったのが最初です。これ「デビュー作」と言われているものなんですけど、すごくつまらないものなんですけど、これはその当時のチラシなんですけど、「ビジュアルコミュニケーション」という副題をつけて、「必死に川をのぼっているつもりの鯉なのだろうか」ということで、三条の鴨川にこういう、自分が染めた五メートルの染色物を、その当時工芸科の染色科にいたんで、こういう染め物をしまして、一五匹ほど染めて、でまあ、これ始末書とかなんですけど(笑)、こうやって川に流したんですよ。ここで、現場に関わると思いもよらないことが起こるということで、初めて出会ったときで、その川に設置しなければならないということで、許可をとらなければいけないような気はしてたんですけど、どこをまわってもどう許可取っていいかわからないんで、結局やっちゃったら、そのまま撤去されちゃったという話なんですけどね。これが最初の、場と関わって、まわりの人がいろいろ動くというか、関わることで、ぼくとしてはこの時まで、三条の河原というのは、ある意味空間として見てたんですよね。そこに僕が何かをやることで、いろんな人の新しい関係ができてくる。でまあ、事件になったりとか、新聞に載ったりしてたんですけど。それで怒られて、始末書を書かなくてはいけないと。で、京都府知事さんにですね、昭和の五八年ですけど、京都府土木局ですが。……こういうことの後、拾ってきてというか、引き上げてきて、その当時ライブハウスだったところの壁につるしてという、こういうことがありました。これがきっかけになって、現場、状況、ある状況に何か自分が表現するということが、ある意味ではやみつきになったというかなんというか、おもしろいなと思った。それは、さっきのここで書いているような話で言うと、いわゆる美術のシステムのなかで何かをやるというのではない。場というよりも、別のシステムのなかに、自分の表現が組み込まれていった時に、思いもせぬこと、予期せぬことが起こっちゃう。それをあえて自分がやる活動について、予期せぬことが起こることを、自分自身がすごく楽しみにしている。
さっき野村さんも言ったように、自分が何かやることで、何かが変わったり、自分のなかで変化することを、僕自身求めているところがあるし、そのへんがなんかこう、最初に出会ったような感じです。初めてですね、町中に出ていったというか、そういうことをやってですね、外でやることがある意味やみつきになったというか。おもしろいなと思って。
これもやっぱり学生のころなんですけど、僕にとっては大きな出来事だったんですけど。(パソコンでクリック、検索)これはですね、さっきのは僕の愛着のあるというか、やりたかったことなんですけど、これは、学生時代に東京芸大の友だちから誘われて、千葉県の手賀沼ってところの横で、なんかやらないかって言われたんです。ところが僕は、ここの屋外に対しては、ある意味何も、そこの現場に対して何も感じることがないというか、何をやるんだろうと、非常にあいまいなところでやらなければいけなくなったんですね。
八四年の話ですね。とりあえず何やっていいかわかんないんで、東京っていうことで、ナマズの「 」を建てるふりをする、そういうまさに工事現場のような雰囲気だけ、看板建てて、よく見ると「ナマズの 建設未定地」となってるんですが、「建設物の完成はありません 責任者 藤浩志」と書いて、夜はライトアップとかして、音とかいろいろ出ているんですけど、工事現場の中をのぞくと、ナマズがお茶会しているシーンがあったりとか、いちおう現場風のものは建ててるんですけど、完成はないです。こういうナマズがいたりとか、うじゃうじゃいたりするんですけど、二週間か三週間ぐらい、ここの現場を作り続けるということを毎日やっていたんです。そのときに僕ひとつだけルールを決めていて、じつはそれは展覧会の一部、出品作家として出品していたんですが、それが美術作品であるということとか、まあ美術作品という意識もなかったですけれども、作品であるっていうことを言わない、ってことを決めたんですね。そうすると、散歩する人が見に来て、「兄ちゃん何やってるんだ」みたいなことを聞かれると、「いやあナマズの 建てるふりをしてるんです」ていう話を一生懸命するんですけど、それがまず理解してもらえないので、僕自身でもあまりよく理解してないんですけど(笑)、それを説明しなきゃいけないし、会話しなきゃいけなくなるんですよ。会話が苦手で、どちらかというとすぐ隠れてどこか行ってしまいたいような感じなんですけど、散歩しにくるおじちゃんがいて、その人が説教してくるんですね。「まだ若いんだから、こんなことやってなくて、ちゃんと働け」と。「これだけエネルギーがあるんだったら、ちゃんと仕事もできるから、こういう無駄なことはしなくていいから」と(笑)。で、「すみません」とずっと謝りながら、何人かと話をしながら、とにかく僕自身は「アートである」ということは言わない。言っちゃったら「ああ、作品ね」ってことで終わっちゃう、というのがあって。それは僕にとってものすごく、(テープ取り替えのため、ブランク)という意味での現場に関わって、自分自身何がやりたいというのもただ、展覧会ということで呼ばれていって、なんのモチベーションもないままにやった、という活動だったんじゃないかなと思うんです。
ぜんぜん違う、これも学生時代ネタなんですけれども、きょうは古いのを出そうという、そういうコンセプトなんですが。これもやっぱり、場、現場に関わることだと思うんですが、いろんな場所に関わりたいと思ったんです。それはそれ以前に演劇をやっていたというのがあって、演劇というのは閉鎖空間だと思っていて、閉鎖空間に観客を閉じこめて、その中で僕が見せたいものをすべて演じる、舞台を作る、照明と音で、とにかく相手をめろめろにする、みたいなことをやっていて、ある種何らかの達成感みたいなものが自分のなかで出てきた時に、この閉鎖空間から一歩外に出たら、違う現実があるというか、ふつうの社会があるというか、ふつうの日常生活がある。そのなかで自分自信の表現というのは非常に無力で、何かちっちゃいというか、何ものでもないというのがあったときに、これも関係だと思うんですけど、まちに関わりたい、自分が変わりたいと思ったんですね。そういうときに、まちに関わるツールとして、ゴジラの着ぐるみを作ったんですね。こう飛躍するところがバカだと思うんですけど(笑)、友だちとの会話のなかで、「ゴジラの着ぐるみを作りたい」「じゃあ作ろう」っていう話になって、ゴジラの着ぐるみを作って、いろいろなとこを散歩するんです。(スライドを見ながら)芝生でゴジラがひるねしてるような、こういう展示もやってたんですけど。……ここからまあ、ゴジラが出動するという、これはゴジラの家みたいな感じで作ってたんですけど。こうやって町中を散歩したりとかするんです。ちなみに、これは東京の「ギャラリーK」というところでパフォーマンス大会みたいなのをやって、ここに写ってるのは宮島達男くんですけど、でこうやって僕が黄色の旗をもって、ゴジラの中に入って、散歩をする。で、観客の反応を見たりとか、いろんなところをまわるんです。例えば、京都の町中の本屋さんに行ってみたりとか、パチンコ屋さんに行ってみたり、交番に行ってみたり商業施設に行ってみたり、そうするとですね、反応が違うんです。お客さんの反応というか、一般の人の反応が違うんです。このときは東京の赤坂の町を歩いたんですけど、みんな無視するんです(笑)。誰も喜んでくれないんです。ふつうになんか「あ、ゴジラいるわ」という感じで、ちらりともしてくれない。「なんでみんなこんなに冷たいんだろう」と思って。マクドナルドとか入っていっても、なんかふつうに「いらっしゃいませ」とか言われて、一瞬だけたじろいだんですけど、すぐに店長が出てきて「何にしましょうか」と言われたり。そういう場所によって、人の反応が違うんだなあと、学生時代非常におもしろい気持ちで。で、ふつうにチーズバーガーとチキンナゲットとコーラかなんか頼んでふつうに帰るんですけど、このときに、僕自身が気にしていたのは、じつは美術というもの、アートというものと、自分自身、何かをやりたいと思ってる自分自身と、どういう肩書きというか権威というか、どういうものと関係をもってやるんだということを、このときは裸の王様のストーリーを例にして、ゴジラの、僕自身が中に入って居るんですけれども、藤浩志ではない、ゴジラが歩く、まあかぶり物はみんなそうなんですけど、自分ではないものになる、というのを、うじゃうじゃ考えながら、ゴジラで散歩していって。場という話をすると、いろいろな場に関わっていったという、そういうころのやつですね。
この辺のことがけっこうベースになっていて、でもこんなことしていてもしゃーないんじゃないか、こんなことしてる場合じゃないなというのは、その当時いつも思っていて、なんだろうなあと。(作品三番目)これはその当時の、大学院の卒業のあれなんですけど、ゴジラと埴輪の結婚離婚問題というのを大まじめにやってたんですけど、大学院の先生たちを前にして、「ゴジラと埴輪が関係を結ぶ、結婚披露宴」というのをやって、会場で学生たちがみんな見に来てくれて、結局六年間の結婚生活にも関わらず、決して温かな家庭を築くことはできませんでした、という。この当時、これは切り貼りですけど、こういうの作って、これ(埴輪)を卒業式の日に、ラブソングを歌いながら池に沈めていくという。このときに「埴輪伝説」という漫画を作っていて、これを配ったりしてたんですけど。京都芸大の池には、いまだに埴輪がいると思いますけれど。これ無断で沈めていったんですけれども。これも何かの関わり、未だに埴輪がいるということは、この埴輪が、その当時は全然考えてなかったんですが、まだ池のなかに居るんですね。居るということは、いまだ僕自何か関係がある、関係しているという。そのへんていうのがキーになるんじゃないかなというふうに思ってます。この辺は昔ネタでございました。
で、最近はどういうことやってるかというのを、この中に知ってる人もたくさんいると思うんですが、近年やってきた、紹介にあった「家庭内ゴミゼロエミッション」みたいなあれですけれども。何か僕自身は、何か表現をするときに、決して自分のなかから何かがでてくるとか、イメージが湧き出て来るみたいな、そういうタイプの作家ではないということを、非常につよく自覚しています。せっかくホワイトボードを持ってきてもらったので、使わないと悪い気がするし。……
(ホワイトボードを使う1)
自分自身というのがいるわけですけれども、藤というのはただ単に名前であって、何者でもない。ここの中に、何かその、多くの場合人だったり、もしくはこういう状況というか環境というか、まわりの場と関わるときに、ここの間にすごい溝を感じたりとか、ここの中に居たときに、藤浩志、僕自身が何かすごい違和感を感じることがあるんですよ。違和感をつねに、むしろ多くの場合に違和感を感じるんですね。何か違うなあと。とくにこの人と会って、何かを話していると、ここの間に深い何かがあるぞ、違うぞ、と思ったりとか。もちろんその逆もあって、誰かと会ったときに、何かすごく妙にフィットするとか、何か共感が持てるとか、ある「場」に行ったときに、自分自身すごく「いいな」と思えるっていう場も、もちろんあるんですけど、その「いいな」と思ったときもいいんですけれども、違和感のほうが僕的には好きで、何か違うぞ、と思ったときに、ここを何か埋めようと努力しちゃうんですよね。埋めようというより、どうにかして、ここのなかに何かを伝えようとしたりとか。そのときに、初めて、この違いからイメージが見えてくるんですよ。それは逆にいうと、ひとりこもっていると天才的にイメージが湧き出てきて、それがかたちになっていったり、表現されたりとか、そういう作り方をするタイプではなくて、何らかの場に行くことによって、何らかのものに接するとか、いろんな人に出会うことによってとか、ある人と関係をつくることによって、初めてそこでしか成立しないというか、そういう作り方というか。だから、僕にとって現場というのはぜったい必要なんですよね。
(ホワイトボードを使う2)
僕は八〇年代前半に表現活動を始めたんで、インスタレーションと呼ばれることが多かった。それがすっごくイヤだった。インスタレーション作家と言われることが非常にイヤで、そこから逃げ出すのにえらい苦労しまして、えらい遠くまで行ったりしたんですけど、そのインスタレーションというのは「空間を作る」というような言われ方をしていて、空間を作る作家だというふうに思われてたみたいなんですけど、ある種場の中には空間だけではなくて、ここに付随する、例えば属性があるんですよ。その属性っていうのは例えば、川の話をすると、三条の河原、鴨川っていう話をすると、あそこの横には京阪電車が通っていて、昔は上を通ってたんですけど、まあ電車が通っていたとか、橋の上を人が歩いているだとか、それ以上に見えないところで、あそこは二級河川なので京都府が管理しているということであるとか、川には河川法っていう法律がある、そこで何かを置くと、河川法の障害物として撤去されるであるとか、そういうある空間、場の中には、法律的なものもあれば、それを管理してる人がいたりとか、もしくはここに絡む組織があったりとか、ただの通りがかりのお客さん的な人がいたりとか、いろんな、別の立場の人が関わっていて、空間というものがある意味で、そういう全体を通してのシステムで成り立っているという、こういう捉え方をするようになったんですね。で、そういうものがおもしろいなと思っていて、僕自身はむしろ、こういうものをどういうふうに使うというか、表現の素材として扱って、かたちにしていこうかっていうことを、その後、点々としながら、いろんな職業に就きながら、土地に関する法律も勉強しながら(笑)というか、それで、こういう全体を、ある現場に付随する大きいシステムみたいなのを使って何か表現できないかな、と思い始めたのが八八年ぐらいだったと思います。
(ビニールプラスティックコネクションの紹介)
ビニールプラスティックコネクションの前の、過去作品をちらっとだけ紹介すると、やせ犬とか、「歌を歌う」っていうシリーズとか、これ廃墟を使ってお米のかえるちゃんの、バーを作ったりとか、こういうなんか、ある風景みたいなのを作ったりした。これは「石橋問題」という、鹿児島で市民運動が起こったときに、そこの朝まで討論会みたいなのの屋台を作ったりとか、これは山口で野村さんといっしょにやったやつの、僕がやったやつですが「ぬいぐるみシアター」という、子どもたちがいらなくなったぬいぐるみでシアターを作る、だとか。犬一〇一匹のやせ犬というのを作って、いろんな町中を旅したりとか。
ああ、このヤモリ、この話をしなきゃいけないんだ今日は。僕はヤモリが好きなんですよ。好きっていうか、八六年から八八年にパプアニューギニアに行っていたときに、ヤモリが部屋にいるんですよ。で、これはそこに潜んでるんですよね。壁に張りついて。ゲコ、GEKOっていうんですけど、それが鳴くということに気づいたのは、半年ぐらい経ってからだったんですよ。「カッカッカッカッカッカッ」ぐらいの、すごい音、声で鳴くんですよ。で、それは僕は鳥だと思ってたんですよ。まさかヤモリが鳴いてるとは思わなかった。あるとき、それがヤモリだと知って、「どうしてこんな大きな声で鳴くんだ」と思ったんですけど。で、その話がなんでこの場の話になるのかというと、ヤモリっていうのは色を変えるっていうか、カメレオンみたいに変えるんじゃないですけど、トーンを、体の色味を変えるんですね。黒っぽいところにいると黒っぽくなって潜んでいるような感じになって、白っぽいところにいくと、じわ〜っとだんだん白っぽくなる。そういう目立たないようにしていきながら、虫が近くに寄ってきたときに「カッカッカッカッカッカッ」と鳴いて、ぱくっと食べちゃうという。そういうヤモリちゃんなんですけど、その生き方に感動して(笑)、「オレはヤモリになるだ、ゲコになるだ」みたいな。自分の価値観を変えるっていうことっていうのは、その当時、僕はいいかげんな学生だったので、きびしい先輩たちから「おまえ、なんて優柔不断なやつなんだ」と怒られていて、「赤なのか黒なのか白なのかはっきりしろ」みたいに言われて、「おれはどっちでもないんだけどな」みたいな感じがあったんですけれども、そういうときヤモリを見て、非常に共感をしたんですね。ある状況が変わったら、自分自身が変わっていいんじゃないかと思い出したんです。状況に応じて、自分自身も変わっていいだろうし、そういう価値観もあっていいんじゃないかというのを教えていただいて、僕はそれ以来ヤモリ的な生き方をしようと。その後の表現とも強い関係があります。何か強いイメージを持って、その場に入るのではなくて、それぞれの現場に入ったときに、その場に応じて僕自身、イメージを変えていってるんですよね。変えていけるし、そこで初めて、自分自身のやることとか作ることがわかってきて、そのときいっしょに働いている人で、自分の仕事っていうのは今まで作られてきています。ビニールプラスティックコネクションをやり始めたときも、そこでアルバイトしてくれてた女の子が持ってたスキルを使うために、子どものおもちゃのかえっこっていうのが生まれたし、そのときいっしょに働いてた男の子が、造形物でその後いろんなものを作っていったりとか、地域でいろんな能力を持ってる人がいるんで、そこでその人たちといっしょにやるというのが、僕にとっては非常におもしろいっていうか。まず、素材を、ビニールプラスティック、じつはそれだけじゃなくて、紙とか木とか鉄とか、ぜんぶ貯めてます。ヘンタイです(笑)。何か素材に使えるんじゃないかなというのが、最初集め始めたきっかけです。素材を分別して、みなさんに見せて、「これを使って何か作りましょう」というような展示です。これね、京都でもやったことあるんです。どこだったかな、たついけだったかな、二〇〇〇年ぐらいにちょっとだけやりました。素材を分けてます。一〇八分別してます。黄色の袋とか青の袋とか、ごちゃごちゃ、長いもの系とかたまごパックとか、豆腐パックとか。これはみなさんにも集めてもらったりしてるんですけど、こうやって「素材を集めてるんですよ」というのを僕は見せるんです。で、これ終わって、例えばそれを使って、「何かを作りましょう」ということを呼びかけて、考えてもらってます。最初によく見せるやつは、「ペットボトルでカヌーを作りました」ってやつですね。これを見せてんですけど、ペットボトルを一個一個くっつけていくと、カヌーができるよ、という。それを見せて、みんなでなんか作るの考えましょうという。単純にくっつけるだけなんで、すぐできるよという。ほんとは大変なんですけど(笑)、すぐできるよという話にしちゃう。えらい早くできあがるんですけど(笑)、これで海に行きましょう、みたいな感じの。
それでこれがもうちょっと進むかたちだと、もちょっと大きいものを作りましょうか、という話になってきて、ウミガメを作ってみましたという映像ですね。ペットボトルって軽いんで、よく浮かぶんで、あと光を入れると非常に明るい。で、こういうのをお見せして、いろんな人たちにいろんな……僕自身デモンストレーションという概念を使ってるんですけど、デモンストレーションをお見せする。そこで、いろんな人たちに、地域の人たちとかに、アイデアを考えてもらう。それでなおかつ、いっしょになにかを作りましょう、という話です。
もうひとつだけ、これは一五〇〇人のカミシズ町というところで、小学校を四つまわって授業をやって、そのなかでビニールプラスティックを使った作品を作ってもらって、なおかつ、モデルとか照明とか音響とか、子どもたちに参加してもらって、「ビニプラショー」というわけわからんタイトルの、みんなでやったやつです。バンドは地元のハイエナっていうグループなんですが、モデルはみんな小学生ですね。このときは、ちなみに音楽ホールがワークショップをいろいろやってたんですけど、なかなか子どもたちの参加者がいないってことで、小学校と音楽ホールって、もうちょっとと連携したらいいんじゃないかと。今はもう当たり前に、ここ二、三年でなってきてますけど、これやった当時は二〇〇〇年だったので、そういう視点もなかなかなくて、小学校を音楽ホールの担当者といっしょにまわって、参加を呼びかけて、実際に学校で授業をやった上で募集すると。そういうつながりを作って、その音楽ホールが学校にいろいろ出張にいったりとか、出前なんとかみたいなことをやりだしたりとか、そういう活動のきっかけになったやつですね。まあ、作品としては、今のビデオテープで編んだニットだとか、細かいのがいろいろあります。これ、やってるときはやっぱ楽しいですよね。子どもたちも照明浴びて、大音量のバンドの前で舞台に立つっていうのが楽しかったし、これ担任の先生なんですけど、先生を囲ってみんなでなんかやったりとか、吹きつけとかも子どもたちが考えていったりとかして。……これうちの子なんですけど、お父さんだけかっこいい人に変えてもらいました。うちの近くに「ヨークス」っていうスーパーがあって、そこの袋で作ったコートだとか。……これ校長先生です。……ポテトチップとかの袋で作ったジャケットですね。……はい、こんな活動もやってます。
あと、最近ずっとやっているのが「かえっこ」というプログラムをやっていて、先週ぐらい、京都でも新風館でイベントに呼ばれてやったんですけど、ビニールプラスティックコネクションというのは、基本的には「家から、家庭からでる廃品を使って、何か活動を作りましょう」ということだったんです。モノじゃなくて、活動を作りましょうということをやっていて、例えばカヌーレースというものをつくったりとか、ファッションショーを作ったりとか、ショップを作ったりとか、その中で子どもたちがいらなくなったおもちゃを持ってくると、「かえっこバンク」というのが用意されてて、そこに「かえっこカード」という通帳みたいなのが発行されて、そこにかえるちゃんのスタンプがぽんぽんぽんと押されていって、それでお店やさんごっこをして楽しむ、ということをやったりとか……。話すと長くなるんで、まあまあ。そういうとでですね、話としてはなんだろうね、アート×場×コミュニケーション……僕としては、何かを自分自身が、何らかの場と関わって、現場と、人と関わって、自分自身の中にイメージが発生してくると。で、そうやって、自分自身がなにか表現を行う、活動を行うと。なんらかのアクションを提示するわけですね。何か僕が持っているイメージを提示すると。そうすることで、また自分が関わった相手であるとか、その場であるとか環境であるとか周辺の人、後輩たちとか、友だちとかが、そこから相乗効果でというか、それに対してまた別のアクションを行うというか、意見を行ってきたりとか、何か活動が始まると。ここは僕がすごく大事だなと思ってるんですけど、とくに僕はいろんな地域の中で関わって何かをやるといったときに、何かやりたいとか、物足りないと思っている地域であるとか、もしくは何かをやりたいと思ってる人でもいいんですけど、とにかく変わりたいと思っている人、こととかがあるとすれば、そこで自分が関わることで、自分自身も変わるし、ある状態から状態へと変化する、と僕は思ってるんですね。その変化すること、変化するエネルギーが、僕自身はいいな、美しいなと思っていて、その変化のしようを、その状況をですね、とても大事なものだと僕は思っているというところで、ひとつ。
dt.:ありがとうございました。もうさっそくに纏めていただいてありがとうございます。まず、野村さんからのご発言の中にあった民主的なやり方で音楽を作っていくという発想の中に、声が小さかったり反応が遅い人でも何かに参加していける。そしてそういうことの中に興味がおありになって、大和高田市の小学校では、すごくたくさんの子どもたちに一斉に演奏をやってもらって、ちょっと民主的ではないんだけどということをおっしゃいましたが、やっぱり何度も何度も練習をさせて野村さんが指導的に「こういう音が出るので、さあこのパートを練習しましょう」というふうになさったのではないという意味ではやはりどこか最初におっしゃったような、声が小さくても反応が遅くても参加できるという精神に通じているプログラムではなかっんだろうかと、その点が非常に興味深いと思いました。
それから藤さんは、これまでのプロジェクトをご紹介いただいたんですけども、いつも藤さんを尊敬しているのは、作品とは言わない、あるいはアートの価値というものを、やっぱり何か、絶対的なアートの価値があって、それを現場でインスピレーションを得て作り上げていくというものではなくて、現場から得たあるいは現場で出会った人とか環境を通じて、何かある状態からある状態へと変化させるということに価値を置いていらっしゃって、それでもなお、それは藤さんの中では価値があるということであって、これが藤流のアートではないということで、その点で大変共感を覚えますし、今日のフォーラムひらいた甲斐があったと私自身は思いました。
最後になりましたけれど、吉岡さんにお話いただきます。おそらく「京都ビエンナーレ」のお話が中心となると思いますが、お話いただきたいと思います。
吉岡:吉岡です。感心しながらお二人の話を聞いていたんですけど、僕はこれまで『diatxt.』 フォーラムというものに参加したことはなかったんですけども、雑誌で見ているとここの隣の大広間という畳の部屋やっていたから、畳の部屋でしゃべったら何か雰囲気が違ってと思って、絶対に畳の部屋だと思っていたんですね。さっき打ち合わせしているときに、そうじゃなくて「今日はこっちですよ」と言われて、入ってきたら椅子がだっと並べてあって、プロジェクターとかテーブルがあって、どうしよう困ったなと(笑)。こういうのが、何だか場の力だなと。さっき藤さんも、自分の中に何かがあってそれを出す、というんじゃない、という話がありましたよね。ここで、こんなふうにテーブルがセッティングしてあって話をしたときと、畳の上で話すのとは、絶対違うと思うんですね。しかもここは小学校だったという話が先ほどから出ていますけど、僕はもともと哲学の研究者なんですけども、なんでこういう美術のイベントとか雑誌の編集にかかわるようになったかというと、京都でこういうことをやるきっかけになったのは、一九九九年に「スキン・ダイブ」という展覧会をやって、その展覧会は僕だけがやったんではなくて、何人かのチームを組んで展覧会の企画をして、明倫小学校ではなくて龍池小学校でやったんですが、そこで展覧会だけではなくて、対談とかそういうのもやりましょうということになって、上田紀之さんという人類学者と鷲田清一さんをゲストとして呼んで話してもらうという、まあそれは、吉岡さんやってください、ということもあって僕はその二人と話をしたことがあって、そのときに、「なんで小学校なんだ」と。「小学校でやる」という話になったときに、やっぱり僕が小学校でやるということに関して考えたときに、小学校は嫌だな、と思ってたんですね。なぜかというと、自分の小学校時代がいい思い出が全然なくて、学校が嫌いだったから、もうおじさんになってからイベントとかかわるようになってから、また小学校かい、という感じで。でもこれは神さまが「学校と和解しなさい」という意味でこういう機会を与えてくれたのだと思って、それでやったんだけども、やっぱりダメで。その後、この明倫小学校の京都芸術センターの企画と関って、また小学校かい、と思って。みんな外から来た人は、いいですね、こんなユニークなところでと言ってくれるんですが、僕も確かに、ここは非常にユニークなスペースだと思っていますが、同時に僕にとっては非常に学校嫌いということで圧迫感があって、それはいまだに和解したとはいえない。学校という場の持っている力というものを感じてしまうんですけれども。でも、こういう場のあり方っていうのは、力というのは、どちらかというと場というものが最初にあって、それがそこにいる人に及ぼしてしまうというものだから、いまお二人の話の中で出てきた場という話題とはやっぱり違うと思いますね。その場合には、人間がある場の中に放り込まれると緊張していられなくなるとか、こういう場だったらいいとか、そういうのは場の中であらかじめ何か力に満ちた場というものが始めからあって、それが見えていて、そこに入るとそうせざるをえないみたいなそういうことだと思うんです。僕がいま考えているのは、それに対して、場所というものがあるんですけども、そこには結局、見えないというか、その場っていうのが僕たちに何を及ぼすものがわからないような場所に入っていって、それは小学校でもいいんですけど、別に。学校なら学校が持っている、いわゆる普通の人が、ここだと例えば展示室とか制作室だとかが、昔の学校の教室の雰囲気をわりと残したままあるから、そういう風景を目にすると普通の人は、子どものころの郷愁とか誰でもすぐ感じるような力を持ってるわけですね。でも、そうじゃない場の力というのも強くあって、それで場の持っている潜在的な力を引き出すというようなことが、こういう場所で展示をしたりパフォーマンスをしたりする、いわばアートというものが特定のサイトとかかわることの意味なのかなあと思うんですけど。
僕は長い間、学校の先生をしていて、最初にうちは話がうまかったんですけれども、最近だんだんへたくそになってきて、今日も僕が教えていた甲南大学の学生もはるばる来てくれてとても嬉しいんですが、彼らに聞いてもらうとわかるんですが、僕は非常に講義がうまかったんですね。いまはとてもへたになってます。これはとても面白いですね。それもひとつの場の力だと思います。講義がうまかったときの自分というのが、僕は嫌いだったんですね。いまのへたくそなしゃべり方をする自分の方が、なんとなくまだ許せるという気がすることがあって。で、場というのは、何か僕にとって手がつけられないことですし、そこに働きかけていくっていう、まあ藤さんの働きかけ方とはまた違うんだな、とそういうことを考えました。
最初、京都ビエンナーレのやることのきっかけとなったのは、いまの『diatxt.(ダイアテキスト)』の前の一号から八号までの編集をやっていて、それも最初何もないところから京都芸術センターというところが雑誌をつくるからというので、そういう話になったんですけれども、京都という場、またもや場なんですけども、京都という場ということを出されると、普通は、京都の魅力というのはもう日本中で知られている、世界的に有名だから、やっぱりそういったものとかかわるということを考えるんだけども、僕はやっぱり、そういう知られている場の力というものには興味がないから、そうじゃなくて、京都でありながら京都とあまり関係ないようなことをしたいなと思って。で、そういうことをすることによって、むしろ京都という場所が持っている別の力が出るんじゃないかと思って始めました。ビエンナーレもやっぱりそうで、京都ビエンナーレというと「京都」という言葉がすでに力をもっているから、それに引っ張られちゃうんですけど、別にビエンナーレをやるということで京都の持っている典型的というか、みんながすぐ見たらなるほどと思うような、そういう態度ではなく、何かちょっと違うことをやってみたいと思って。それで「スローネス」ということを考えたんです。スローネスということを考えて、まわりに言ったら、もうその瞬間に、ダメだ、と言われて(笑)。なぜダメかというと、スローネスというのは、ようするに「はやい」人が、はやくできる人が言うことだっていうわけです。もちろん、それは僕もよくわかるんですけども、なんでもはやくできる、野村さんが言うように反応がはやい人というのは議論に勝ちますが、反応がはやい人が、自分は勝つんだけれども、「いやでも、はやいだけがとりえじゃないんだよ」なんてね、余裕を出して(笑)、そういうのがスローネスだっていう。だからもうちょっとこう大きな話でいうと、例えば、世界の中でははやい国っていうと西洋がはやいですね。アメリカが一番はやい。で、そのはやい国のはやい人たちが、「俺たちはむちゃくちゃはやい。勝ってるけども、でも、スローな、自分たちよりもずっと遅い道具でも、それも価値があるんだよっていうような手を差し伸べる」みたいなね。そういう概念に聞こえるって言われたんですね。確かにそうだなと僕も思ったんですが、でもそれではですね、はやさとは違う、つまりはやさの基準では計れないようなものにどういう名前を与えたらよいのか、ということがわからなかったんですね。そういうときに、もしかしたら「スローネス」という言葉自体が持っているもとの意味、もとのニュアンスというか、そういうものを裏切るようなことをスローネスの名の下にできないかというふうなことを考えました。だから、はやさって、優れている人、優越している人が余裕綽々で言うようなそういうスローなどではなくて、とにかく何か遅らせること、何かを完成したりする、進歩していることを遅らせることっていう、そういう意味で使いたかったんです。いまわれわれが普通のこととして進めているような手続きをやめたりするというようなことです。
ここでちょっと例え話なんですけども、たまたまスローネスについて何か言ってくださいといわれたときに思いついたことなんですけども。『マハーバーラタ』というインドの叙事詩があるんですね。『マハーバーラタ』って有名でみんな世界史ではならったけれど誰も読んだことがないという(笑)。すごく面白い話なんで、是非読んでほしいと思いますけど。『マハーバーラタ』の最初のところに、これは叙事詩ですけれども、もちろん古いものだから、語り部のような人がお話を語って、それを書き留めた。で、どういうふうにしてできたかというと、ヤーサという天才的な詩人がいて、その詩人の頭の中にいろんなお話が浮かんでそれを語ることができるけど、誰かそれを書き留めてほしいと。で、その書き留める人が、【ガナパティー】というインドの神さまです、あの象の顔をした神さまで、その神さまが、自分はどんなにはやくお前が語っても書き留めてあげるけれども、自分の筆はひとたび書き始めたらもはや止めることはできないだろうと言うんですね。だから、お前はよどみなく語り続けなければならないだろうというんです。それが自分が筆記をしてあげる条件なんだ、と。それで詩人は困って、どうしようかと思う。いくら私が優れた詩人でも詩句を考える時間は欲しいなと思って。それでヤーサはどうしたかというと、ときどきちょっと聞いただけでは意味がわからない言葉を、非常に複雑な詩句を考えたんです。最初に、その【ガナパティー】という神さまとの約束で、私はずっとよどみなく話し続けようかと思うけれども、あなたも私の詩句の意味をちゃんと解釈してわかってから書いてくださいという約束をしたんですね。それで彼は途中ときどき非常に複雑な詩を作り出す。そうすると【ガナパティー】という神さまは「えっ?」とか思って、それはどういうことだろうと思って考えるんですね。で、その考えている時間に、次の詩を考えるということをする。つまり、『マハーバーラタ』という詩というか物語が生み出される最初のところに、物語の進行を遅らせる遅延させることが書かれてあるということが非常に面白いと思うんですね。それで、スローネスというものをそんな意味で使いたいということがあります。それがうまくいったかどうかはわからないですけれども、具体的にはビエンナーレということで、作品と作家に頼んだりするので、スローどころではなくてとても忙しかったんですけれども、なんかその中で、う〜ん、今日はどの話をしようかと思ってきたんですが、いま顔を上げたらパッと高嶺くんの顔があったので、彼の作品のことを最後ちょっと取り上げて締めくくろうと思います。
最初に、スローネスという言葉は抵抗があるな、と言ってくれた中の一人、彼もその一人なんですね。皆さんご存知のように、このビエンナーレの会場の中に作品を展示しましたけれども、実際にその中心となる作品というのは京都府の京北町にあるマンガン記念館という場所にあります。まだいまもありますけれども。最初に彼にその作品の構想を聞いたときに、そんなことを考えるのか、と僕は感心したんですね。僕はだから、スローネスというコンセプトについて、彼と話をしたんですけれども、マンガン記念館という場所を使って、マンガンを掘っていた坑道に住んで、その穴の中で制作をしてっていういろんな話を聞きました。で、マンガンっていうのは、もちろん鉱物の名前としては有名だけれども、いったい何に使うのかとことを知っている人はあまりいないですけれど、マンガンというのはようするに鉄、鋼鉄を作るときに必要なものであって、硬度の高い鉄を作るときにはたくさん必要であると。硬い鉄とは、大砲とか銃器を作るときに非常にたくさん必要であると。そういうわけで、マンガンというのは自然に生み出されたものではありますけれども、人間の歴史の中では戦争の時に特に必要であると。マンガンを生成する地球の地質学的な何億年というようなオーダーの時間の流れがまずあって、それは宇宙的な時間の流れ。人間が登場して、自然史の中に人間の歴史が登場して、自然とはまったくかかわりのない必要性からそういうものを採掘し始めた。しかも、そこのマンガン記念館では、朝鮮半島から強制的に連れてこられた人たちが採掘をしていたという人間の歴史があって。その上に、僕はたまたま、アーティストと話をしていたとして、彼がそこに何ヶ月か滞在して、制作したいというそういう時間の流れ。そういう三つの全然オーダーの違う時間の流れがそこで交叉すると、それで少なくともひとつは成功したな、と。というのは僕もスローネスという言葉からそんなふうな展開が出てくるとは思わなかったので、言葉をその中に投げてくるというような経験をこのビエンナーレを通じて、これは別に、結果的には高嶺さんの作品だけではなくて、その他のいくつかの作品で、自分は確かにディレクターだから全体を上から見下ろしているようなふうにみられがちなんですけど、実際には、あまり考えないで思いついて、これはどうかな、と思った言葉をまったく違う組み合わせで解釈したり展開させてくれるっていうことを、それを見て、それを助けるということが自分としては面白かったですし、藤さんが言ったように、僕自身がすごくかわったなと思います。なんか辛気臭くなったなあ(笑)。このへんで。
dt.:私としては、吉岡さんのどんな点がかわられたのかなとお伺いしたいという気はするんですが。
吉岡:ますます、話がへたになりました(笑)。
dt.:わかりました(笑)。
最初にお話のありましたように、確かに『diatxt.』フォーラムは二回は、こちら側の和室の大広間でいたしまして、使う機材の問題とか、実際、聴衆の方の負担という点では、長時間になると椅子の方が楽だということに気づきまして、それで前回からこちらの講堂を使うようになりました。ただ、具体的に言いますと、こういう並べ方しか結局のところうまくいかないんですけれども、和室の場合でも、一番最初のときは、しゃべる側も聴いていただく側もまったく同じ目線に立つような会場の設定の仕方をしたんですけれども、それではやっぱり不都合がでてきまして、こういう机を和室に持ち込んだりして、確かに場の持っている、ただ単に椅子とテーブルがあるんですけれども、だけどそこに自ずと出来上がってしまう力といいますか、何か聴く側と聴かれる側というような関係がどうしても出てくるなあ、何とかしてそれを低い、同位置になるようにしたいとは思うんですけれども、確かにこういうことをすると必ず出てくる力だと思います。
それから言葉の問題も多くありまして、やっぱり一方通行になりがちですので、その瞬間に使った言葉をどう受け止められているかということも、なかなか、それがどういうふうに受け止められていて、どういうふうにこちらの方に返ってくるか、というところまではまだ持っていけていないのが実際のところです。
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