以下、文化ジャーナル 天地の拍子 2006年冬号より抜粋
2005年11月17日 都城市立美術館にて収録浜:浜地克徳
藤:藤浩志
小:小山田徹
早;早川由美子浜:今日は本当にお忙しい所どうも有難うございました。
早:有難うございます。よろしくお願いします。
全:よろしくお願いします。
浜:でもう、始めてよろしいですか?
全:はい
浜:今日はですね、PANDAっていう芸術文化支援のNPO法人が鹿児島で出来まして、そちらが「天地の拍子」っていう雑誌を出しているわけです。
で、そこでの特集企画ということで、このインタビューをお願いしたわけですけど、まず最初にそのNPO法人の代表の早川さんに、どういうNPOかということと、どういう目的で作った、どのような雑誌かということを簡単にご説明いただきます。
早:はい。この6月に法人化したのですが、日常の中で芸術を楽しんでいく、本来文化芸術があるべき姿に戻していきたいという思いでこの法人を作りました。
そのためにはネット上で配信されるだけの情報ではなく、いつもどこでも手元に置いて見れる、活字として紙の媒体で情報発信するものが欲しいと思い、文化ジャーナル「天地の拍子」というものを作りました。
・・・中略・・・(天地の拍子でご覧ください)
浜:小山田さんにも送ってあるんですけど、インタビュー項目をまとめてあるので順を追ってお聞きします。お一人ずつ簡単にお答えいただければと思います。
浜:藤さんも小山田さんも鹿児島出身ということで、今はそれぞれ鹿児島から離れてお住まいなんですけど、あのぉ「鹿児島と私」というかですね(全・笑)離れて制作される中で鹿児島にどういう思いを持っておられるのかお聞かせください。
鹿児島出身者として意識して動かれることがあるのかなぁと思って・・・。
藤:「鹿児島と私」・・・ねぇ。じゃあ小山田くんからどうぞ!
小:えっー
全:(笑)
小:あー、えー・・・、こう改めて考えるように鹿児島を意識して毎日を生きてはおりませんが、あのぉ・・・実家があるんで帰るとたまらん懐かしさはありますね、やっぱり。まぁ、今は僕の替わりに浜地くんが実家に住んでくれてるんで・・・(笑)
浜:替わりって・・・替わりですか・・・
小:あの、毎日、浜地くんの事を考えながら両親の事を考えておりますっ。
藤:なんかテキトーに答えたな、今、お前・・・
小:いやいや・・・
全:(笑)
浜:やっぱり鹿児島より京都の方がいいんですか。活動するには・・・。
藤:おっ、つっこむねぇ。
浜:鹿児島で活動というのは考えられないですか。
小:いやぁ、あのやっぱり、あのまぁ可能性としてはあるやろうけど、今は京都でできた人間関係の中で物事すすめてるから、なんかパッと離れて次の活動という感じにはなかなかならへんかなぁ。
藤:う〜ん、なるほどね。
浜:藤さんは?
藤:僕ですね。
浜:ちょっと鹿児島に戻られましたよね。
藤:そうですね、4年間戻りましたね・・・・・・
浜:・・・
藤:あの、いや、語ると長いから、ここでは省略ね。この話しだけで2ページ埋まるからね。
全:(笑)
浜:京都芸大に進まれた理由というのはどの辺にあるんですか。
藤:京都に行きたかったから。
その話も長くなるよね。「鹿児島と私」って、僕、複雑ですからね。
両親は奄美大島出身なんで、鹿児島に対してそれほど好意を持ってるわけではないんですよね。
浜:高校は鹿児島?
藤:もちろん。鹿児島アイデンティティみたいなものがどうなのかっていうのは、逆に外にいると感じますよね。鹿児島の人間やなぁって。
で、僕の場合、今、福岡にいるっていうのは、・・・鹿児島っていうのもひとつの地域であるけれども、鹿児島も含めた九州という地域の捉え方に興味を持ったんですよ。
多分、京都とかの地域の規模と、九州という地域の規模と、さらに東京の青山とかの地域の規模が同じくらいのバリュー感があるような気がするのね。
そういう意味で鹿児島での活動を考えると、福岡というのを押さえておく必要があるかなという気がしたんです。
浜:今、こんな感じでマルチメディアもすすんで、藤さんも小山田さんも全国的に動いてらっしゃるではないですか。海外まで足を延ばされてらっしゃいますよね。だから、いつかは鹿児島に戻ってきていただいて・・・。できないのかなぁって。
藤:帰ってこや〜よって?
小:(笑)
藤:戻るっていうか、僕の場合は鹿児島での活動はじんわりとやってるんですよ〜。じわじわと。何かやろうよ、小山田君!
小:まぁ、何か考えたいけどなぁ。
藤:来年、出身の高校、甲南高校が100周年やからね。
何かきたぁ?100周年の事業のお知らせ。
小:あぁ、何か来てたような気がする。
藤:出してない?来年の秋の100周年記念の展覧会の出品依頼書。
浜:あ、高校の先輩、後輩だったんですね。
小:そうそうそう。
浜:そういうつながりもあったんですよね。
小:めちゃくちゃつきあい長いですよね。
藤:長いね。
藤:はい、鹿児島と私ということでいうと、まぁそうだね・・・ひとつのやっぱり重要な場所ですね。(笑)
小:はい、すばらしいね(笑)
浜:大方のそういう活動拠点をまた鹿児島にということも考えていただいて・・・。浜:藤さんは、京芸で染色を勉強されて、小山田さんは日本画ですよね。
こういう伝統的なことをしてはったのに、なんでだんだん現代美術とかダムタイプとかになっていきはったのでしょうか。
藤:はいっ、どうぞぉ。
小:えっえっ〜。
全:(笑)
浜:順番的に小山田さんがいって、藤さんがいくって感じですかぁ。
藤:小山田の出方を見ながら俺が切り返して行くって感じで・・・
全:(笑)
小:いや、あのう、僕は、あのぉ京都の大学を選んだのも、
藤:(笑)俺や
小:えーっと、日本画を始めたのも、
藤:(笑)俺や
小:えーっとぉ、ダムタイプを始めることに
藤:あーぁ、俺や
小:なったのも、藤さんのせいなんですが・・・。
全:(笑)
藤:(笑)せい? せいと言ったね、おまえ。
小:あのう・・
藤:日本画描いてなかったもんね。
小:高校時代、先生がやってたから、珍しく高校で日本画やってたけど。
藤:もともとなんだっけ?お前、何やってたっけ?結構、デザインみたいなものをすごい好きだったよね。
小:んっー、なんでも・・・なんでも屋なんよね。
藤:いろいろやってたよね。
小:う〜ん・・・
藤:まぁ、そういうことね。たまたま日本画だったんだよね。
小:そう、たまたま。まぁ、あの、顔料という素材が好きなんやけどね。
う〜ん、ただなんとな〜く決めて、次にいろんな人と出会って、出会った人がたまたまそういう現代美術をやってたりとか、演劇やってたりとか、そういうので自分もひきづられながら 、それに変わっていったという感じかなぁ。
藤さんはなんで?
藤:えっ僕?僕にはあきらかな理由がありますよ。鹿児島に仏像がない! 仏像彫刻がない! お寺がない! 廃仏毀釈運動でどんどん潰されていった。山形屋でやっていた 土門拳の写真展を見たのがきっかけなんだけど、京都にあこがれて意図して行った。
素材については、日本画を高校時代描いていて、いろんなことをやったので、やったことのないことをやってみようかなって、たまたま染色を選んだ。ただ、その時にお寺が、例えば、三十三間堂がなぜ成立してるのかとか、龍安寺の石庭がなぜああなってあそこにあるのかとか、広隆寺の弥勒菩薩・・・よく行ったね、小山田ね?
小:行ったねぇ・・・
藤:近くに住んでてさ、太秦に住んでて、わざわざ芸大まで通って・・・んで、広隆寺の弥勒菩薩がなぜあそこで成立してるのかということに興味があって、自分はその「モノを作る」という職人をある意味であきらめた瞬間に、「状況を作る」ような仕事に興味がいったというか・・・
小:うまいこと言うなぁ〜
藤:演劇をやってたというのもひとつのきっかけだけどね・・・。
空間を作ることも面白いけど、空間を作るその状況を作るというのに一番興味があるということ。
小:僕が藤さんから学んだことはまさにそれですね。
全:(笑)
藤:状況を作るというのに興味があるのであって、僕の場合、現代美術をやっているという意識は全然ないですよね。今もないもんね。
小山田もないやろ?
小:それは全くその通りでしょう。
藤:うん、多分、僕らの周辺の人は現代美術をやろうとしてないよね。
小:選んだことはないよね。
藤:うん、たまたま手法として、今のというか、まぁ伝統的ないわゆる大学で教える技術、技法からはずれていって、もっと身の回りにあるなんか技術・技法というか、そんな感じになっていったと。そういう意味では浜地くんが農業にいったのと変わらないと思う。
小:まぁ、周りの人がこう、何してる人か言いにくいからとりあえず現代美術の人となってる・・・
藤:なってるけどね。(笑)
浜:小山田さんは、日本画をされてて、その日本画の流派みたいなものがあると思うんですが、物足りなかったんですか?
飽き足らないというか、それとも、それはそれでこれはこれって感じで分けてはったんですか?
小:日本画の写生をしたりとか、顔料で絵を描いたりすることに関しては、物凄く好きやったんやけど、なんかやっぱり先生に付いたり画壇に入ったりとかそういうことがめんどうくさかったんやよね。
藤:多分、僕の言葉で言うと、日本画という素材と表現手法は好きだけれども、日本画に付随しているシステムにあまり興味がなかったということ。
小:あぁ〜、いい事いうなぁ
全:(笑)
浜:ええ事、言わはる・・・
藤:日本画に付随するシステム、絵画の世界の周辺のシステムがたまたま合わなかったというか、あまり興味がなかったんだよね。
小:完全に否定はしないけどね・・・
・・・中略・・・(天地の拍子でご覧ください)浜:次の話題にいっちゃいますが、学校出られて、僕がこうなんとなく傍から見てたら、小山田さんの場合はダムタイプからBazaarCafeとかの方向に行って、日本画という平面作品の枠をずいぶん超えて、表現が社会的な関わり方の方へ行かはったと思うんですが、その辺はどういう流れでそんな風になっていったんですか?
その辺の事を、ちょっと教えてもらっていいですか。
小:はいはい。そうですね。あのぉ、先程、藤さんからの話で、状況を創るのがおもしろいと。で、確かにそれにかなりの影響を受けて・・・。
大学入った時に演劇部が・・・「ザ・カルマ」という演劇部が・・・
藤:(笑)
小:僕も当然のように入ることになって・・・
藤:当然のように(笑)なぜだろう(笑)
小:それは素晴らしく楽しい演劇クラブだったのですが、やっていく最中で、いろんなモノをそれに乗っけていこうと。
例えば、メンバーでビデオとか映像とか写真とかやってる奴、音楽をやってる奴とか、そういう人々の表現というのも、その舞台演劇の中に入れ込んでいこうとし始めたときに、なんかこう従来の演劇の形では活動できなかったんやろうね。
で、ちょうどその頃、世界的にパフォーマンスと言われる「シアター・アート」と呼ばれるものが出てきて、あのぉ、藤さんたちには申し訳なかったんですが、劇団「ザ・カルマ」を潰して・・・
藤:いっすよぉ〜、welcome,welcome!
小:ダムパイプ・シアターと名前の新しいグループに作り変えて、自分達が大学でやっているさまざまな活動とクラブとして存在していた演劇の世界を一緒にしちゃった時期があるんですよ。
それは、1984年。
で、その活動をもう大学の中で自分達の表現としてやり始めたら、えっと、僕にとっておもしろかったのは、もうホントにいろんな事やってる人間が集まってやってるから、それを創る状況というのを設定する、どうやってミーティングして、どうやって制作をして、どうやって公演をして、どうやって宣伝をしていくかとか。
なんかそういうのを企画していくのが楽しくて、僕はまぁ自然と舞台監督というか、舞台美術・舞台監督をやっていくようになって、気が付いたら10年以上やってたもんな。
で、そのダムタイプも多くの人が集まって一緒にやるという協働作業の場所なんよね。
で、そういう人々が動きやすい場所というのを、例えば、事務所だとしたら、多くの人が出入りしてみんなで共有する空間、で、そういう所を開発していくこと、というのがだんだん僕の興味の中心になっていく。
だから、単にひとつの集団の事務所であったものがもっと多くの人が出入りしたりとか、色んなことに使える空間に変えていきたいなぁとか、いろんなアイデアが出てきて、それを僕自身の中では「共有空間の開発」と呼ばれるものとして自分の活動の中心に持っていったかな。
で、その中から出てきたのが、「Bazaar Cafe」とか「アートスケープ」という共有空間。
美術だけではなくていろんな社会的な活動、例えば、エイズにまつわるさまざまな活動とか、女性の問題とか、子育ての問題とか、そういういろんな事をやっている人々が共有で使える空間みたいなものを作って、そこを中心になんかいろんなタイプの共有空間というのを街中に存在させていくというのが、ここ10年間の活動の中心になってきているという感じかな。
浜:ありがとうございました。よくわかりました。
藤:うん、よくわかった。
浜:藤さんに聞いていいですか?
藤:はい。
浜:学校時代から「ザ・カルマ」したり、学校を出てから京都情報誌をされたりと、いろんな人を巻き込んでイベントみたいなことをされたりと楽しそうにされてましたけど、パプアニューギニアに行かれましたよね、急に。
藤:行ったねぇ。あん時送別会したねぇ、みんなで。なんか100人くらい集まって、おかしかったね、あの送別会・・・。
浜:あれはなんで・・・青年海外協力隊に行こうと思わはったんですか?
藤:いや、あのぉ、まぁなんかいろいろ話せば長い話もあるが、行った理由はいくつかあって、ひとつはまず日本のその当時の状況を非常に嫌っていたのは確か。あんまり好きじゃなかったんですよ。
80年半ばの日本を。その当時興味があったのは、例えば、70年代、60年代の前衛運動の時期であるとか、学生紛争の時期であるとか、もっと言うと、日本画をやっていた理由もあるかもしんないけど、江戸時代から明治に変換される頃に凄く興味を持ってて・・・、西欧からの概念が入ってきて、いろんな価値観が変わる時期。政治的には不安なところがあって、そこに例えば表現者というのは何か関与するのではないかと。
そんなことを考えながら日本の国内にいると80年代というのはぽよぽよとしていて、自分自身が、どこにエネルギーをぶつけていいかわからなかった。
そんな時、たまたま広告で青年海外協力隊の募集を見つけて・・・「途上国に2年間」と書いているわけね。
でもその時、開発途上国というのがどんな所かイメージできなかった。次の瞬間頭によぎったのが、例えば、その時代に韓国に行けば60年代に戻ることができるんじゃないかとか、中国に行けば50年代に戻ることができるんじゃないかとか、で、もしかしたら、開発途上国というとこに行けば、ちょうど西洋化が始まるくらいの、江戸時代から明治時代のいろんな価値観が外から流入してきて・・・そういう時代にタイムスリップできるんじゃないかと思ったんですよ、イメージ的に。
それと、自分自身のその時いた場所と自分自身との距離をとりたかったんだよね、凄くね。なあなあで暮らすのがいやだった。それを恋愛関係に例えて、例えばね・・・
小:(笑)
藤:(笑)要するに離れてみないとダメなんじゃないかという話ですよね。たまたま好きでもないのにズルズルと一緒にいて、なんか子ども作っちゃって、結婚してるみたいな感じがいやだったんです。
美術さんとのお付き合いも大学を卒業する時に別れたはずだったんだけど、美術館とかの展覧会に招待されて、まるで作家みたいな扱いをされて、美術とやっぱり別れられないでいる自分もいやだったし、美術とかの世界から遠い世界に行くイメージが欲しかったんです。
協力隊ってのが何なのかさっぱりわからなかったし、外務省とかってますますわけのわかんない世界だったし、途上国ってのもますますわかんないし。
自分がイメージできない世界に行けるひとつの窓口として、僕にとって凄く大きいきっかけだったかな。
浜:凄く楽しそうにされてたんで、そんな思いをしてはるって全くわからんかったですね。
藤:(笑)そう、こう見えてもね。(笑)そうなんだよね。
小:(笑)
・・・中略・・・(天地の拍子でご覧ください)
全:(笑)
藤:もうやっぱり侵されてるんだよね、そういう意味でね。かなりこう・・・
小:手紙も長かったよね。
藤:手紙、書いたね、小山田ねぇ。(笑)
小:長い手紙だったよね。(笑)
藤:だったね、書いたね長い手紙、いろいろとねぇ(笑)若かったねぇ、おい。
小:(笑)・・・対談はまだまだつづく
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